言葉とは自分から離れた心の端なり
僕のこのブログから発信する言葉を受取ったある読者の方から頂いた、以下はメールの転載です。
それは金曜日0 15分、の投稿でした。
いつものようにいつもと変わりなく読んだはずなんですが、静かに語りかける声が、スーっと胸に染み渡るように入りました。内容は関係ないのです。すぐにとても満ち足りたような不思議な気持ちになりました。
あれ~?です。
わたしはいつもと変わりなかったですよ。
その時、これは牛さんが、とてもピュアな状態で発した言葉ではないかと思いました。声を聞いたり、一緒に行動してお互いにいい気分になることは、時にありますが、文章を読んでそうなるのは初めてです。本を読んで感動したというのとまた違うのです。
友人で、ある人から文章を書いたFAX が来ると、読んでいつも気分が悪くなる、、という話があります。内容は特に悪いことが書かれているわけではないのに。
反対のパターンですね。その時、きっと書いた方には、無意識の邪悪な部分があるのだろうと想像しました。
なので、牛さんがとてもピュアな心の境地で書いたのだと思いました。わたしは、毎日煩悩にまみれた生活をしてますので、心が洗われたんでしょう!
少しそれますが、私にとってチャンスとか、幸せのような出来事は、もういいのだと、完全に諦め、両手で手放した瞬間に訪れます。
不思議ですね。。
何にもない無の境地。
本題に戻りますが、ピュアな状態とは、無の境地に近いでしょうか。こう書いたらどうだろう?とか色々意識しながら書くとそうはならないですよね。
人が発した言葉にもその人の情念や波動が乗ることを「言霊」と言いますが、文章にもその情報を発した人の「想念」なり「波動」が乗るものだと僕は思います。
現に僕も人が書いた文章で、その人の「波動」というものを昔から感じます。それは文章の長い短いに関係なく、感じます。
例えば、、、
この人はリアルに会って感じている以上に、とても真面目な人だな。
とか。
物凄く丁寧な書き方をしているけど、すごく作為的な人だな。
とか。
愛だの感謝だの書いている割には、この人の本質にはそんなもの無いな。
とか。
相手をとてもコントロールしようとしている人だな。
とか、その人が発した文面からすぐにわかります。
そして文面から伝わってくる相手に、ネガティブな波動がある時は、こちらも精神的なダメージを受けることもあります。ので、とても相手からの言葉の情報には注意をしています。
ですのでfacebookのニュースフィードに現れる投稿でも、よほど親しく、それも良い波動の人の投稿しか表示されないように常に調整しています。多くても僕のニュースフィードに現れる人の数は最高でも30人程度にしています。
インターネットの発達に伴い、個人に入ってくる情報も昔と比べて遥かに多くなりました。昔は、自分から求めない限り、情報は得られないものでしたが、今は違います。
何もしていなくとも勝手にスマートフォンからお知らせが入り、様々なアプリの更新のお知らせやらメールなどが入ってきます。そうすると知らず知らずに情報にコントロールされてしまうことも少なくありません。
時にはネガティブな何かを批判する情報とか、こちらの恐怖を煽るような情報もどんどん入ってきます。
目に見える身体に浴びた一日の汚れや汗を取るために、人は一日の終わりにお風呂に入ります。そこで表面的な汚れを取るわけです。
それと同じように心も様々な、ネガティブな汚れを浴びます。普通はそれをそのままにしているので、知らず知らずにそのマイナスが積もって精神的な悪い状況になるということです。
僕はそれを解消するために、一日の終わりには「瞑想」というツールを使って、心の汚れを取るようにします。これをすることで心が軽くなります。心の汚れを取っているということです。
自分以外の人へ、情報を伝える時には出来るだけ心の平常を心がけて文章は書くようにしています。そうでないと、冒頭に引用したように文章自体で影響を受ける人も少なくないからです。
文章や言葉というものは、いくらでも表面的には本当の想いとは違う、装ったものを表現できるものです。
しかし、その装いに隠されたその人の本質はわかる人にはわかり伝わるものだとも僕は思います。人に対する言葉、文章というものは本来そこまで考え抜いて発信するものだと思います。
文字言葉でもその人の「想念」「心」が乗り移り、伝搬するものなのです。
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