恋愛の美学

恋愛コラム

恋とは病かというほど、自分の理性だけでコントロール出来ない部分ってありますよね。自分ではコントロール出来ないから「病」とか昔からいうのでしょうね。

男は女に惚れ、女は男に惚れる。昔からこの法則というかDNAの信号が変わってないのが考えればこれまた不思議。

恋というのは、行き着くところなんじゃらほい、と考えれば「お互いが一つになりたい」という気持ちなんじゃないですか。

はじめ離れていたのが、近づきたい。近づきたいという思いから、相手に触れたい。相手に触れたら、出来るだけ一体となりたい。と思う心の動きが恋愛ではないですかい?

一つになりたいという欲望が、セックスしたいということになるのですな。

違う見方をすれば「恋」とは、相手のすべてを知りたいと思う欲望。どんな些細なことでも知りたい、見たい、確かめたい。

そういう要素があるからえてして「恋」は「ゲーム」に例えられる。ゲームは出来ない時が一番集中し、手放せなくなる。でも一旦最後まで出来てしまうと、手放し、また次ぎの出来ないゲームに挑戦する。

これって、結構男性の恋愛に似ている。

女性はどうかというと、男性のパターンに似ている人もいるけど少し違うかな。女の子の好きな遊びは着せ替え人形。同じ人形に違う服を着せ替えては、それを楽しむ。見てれば、同じことを毎日してても飽きないのね。

それって大人になった女性でも、恋愛で同じようなことをしているのかもしれませんね。同じ相手と毎日食事して、同じような会話をして、同じように自分を愛してくれたら安心して満足、みたいな。

まあいろんなパターンがあるけど「恋」というのは、かなり盲目的なことがあるのは確かですな。

僕も20代の頃は、好きになった女の子はどんなことをしても手に入れたい方だった。だからかなり無茶もしたもんだわさ。成功もしたけど、失敗も随分しましたな。

そうこうしてて30代になった時「恋愛の達人」ちゅうものは、どんなだろうと考えた。いろいろ考えた末に出した答えは「やってもやらなくてもその関係を楽しめる人」という結論に相成った。

まあカッコよく言ってみれば僕なりの「恋愛の美学」ですな。

「やってもやらなくてもその関係を楽しめる人」というのは、やはり色んな恋愛体験を踏まないと到達出来ない境地だと思う。

「やっても」というのは、もちろん深い関係になってもということで分り易い。「やらなくても」というのが、これまた難しいのですな。

好きになったら当然男でも女でも相手とやりたいのですよ。どういったってワタシたちは仙人や神様じゃないので、動物的本能があるからね。

その上でも「やらずしてその関係を楽しむ」とはこれ如何に?

想像して楽しむことですよ。これを僕が発見した時は、まさにコロンブスの卵の境地のごとく自分で感動しましたね。

実は「想像して楽しむ」ということは、それを現実にしない間はいつまでも楽しめるということなのです。この方が雄大なのですね。

そしてそれを理論だけでなく、自然に実践して楽しむ境地に達した人が僕は「恋愛の達人」なんじゃないかと考えているわけです。

欲しいものを我慢して、それを手に入れた時のことを考える訳ですから、そこには多少なりとものヤセ我慢が必要になるわけです。そのヤセ我慢も必死ではなく、あくまでも心の余裕を持って楽しむ。

「美学」とは、そこにある程度のヤセ我慢が必要なんだとも思いますね。

牛流「恋愛の美学」でした。

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