神戸のメリケンパークに「映画記念碑」というのがある。
神戸と映画の関りは明治29年からはじまる。
日本初の活動写真(キネトスコープ)というものが、一般公開されたことに始まる。活動写真というのは今の映画のようにスクリーンに映写するものではなく、箱の中のフィルムを除き窓から見る、というものだった。
それが映画のはじまり。
そういう理由で神戸には映画の上演館が次々と出来て、外国映画が頻繁に上映される地になった。
昭和62年に映画記念碑を建てる会によって、メリケンパークに映画記念碑が出来た。海に近いメリケンパークの芝生の中に、中央部分を四角く切抜き、スクリーンに見立てた石碑があり、その前には客席を思わすように石が整然とならんでいる。
この石は映画評論家で有名だった淀川長治が選んだ国内外の映画スターの名前が、一人ずつその石に刻まれている。昔の懐かしい往年の俳優ばかりだ。
神戸に来られる際には、行ってみるといいよ。




僕の映画との関わりは父親に由来する。
僕の親父は僕が26歳の時に他界したので、大人になってからそう会話したことはない。なので、今では少し後悔している。
放任主義だった両親からは怒られたという記憶はあまりない。なので何かを教えられた、という記憶もそんなにない。
だけど、その中で唯一親父から教えて貰ったのが「映画」のおもしろさだ。
それは僕が中学生の頃だった。
僕が明日行われる試験勉強をしていると、僕の元へ来た親父が「今から良い映画あるので観ろ」と僕はテレビの前に座らされた。
おいおい、明日試験がありその勉強をしている息子にテレビを視さすのか。とんでもなく迷惑な親だ、とその時は思ったのを今でも覚えている。
夜の9時からはじまる洋画劇場だった。
その見せられた映画のタイトルは今でも鮮明に覚えている。

第二次大戦におけるアメリカ駆逐艦とドイツ・Uボートとの戦いを描く戦争モノ。タイトルは「眼下の敵」というもの。
主演は駆逐艦の艦長にロバート・ミッチャム。敵対するUボートの艦長には、ドイツの名優クルト・ユルゲンス。
海上の駆逐艦と海中のUボートの壮絶な一騎打ち。互いの艦長は知力を振り絞って、相手を追い詰め合っていく。
最後は上昇してきたUボート目掛けて駆逐艦が体当たりする。
炎上する互いの船の上で、乗組員を救助していたUボートの艦長クルト・ユルゲンスは敵艦を見上げたそこに相手の艦長ロバー・ミッチャムの姿を捉える。瞬間見つめ合う男二人。瞬間的に目の前の男こそが、それまで闘っていた闘将だと知る。
次の瞬間、Uボートの艦長クルト・ユルゲンスが静かに手を挙げた。それを確認した駆逐艦の艦長ロバート・ミッチャムも相手にならい挙手をする。
互いに敵将に敬礼をし、敬意を表したのだ。
次の瞬間、駆逐艦の艦長ロバー・ミッチャムがUボートの艦長クルト・ユルゲンスにロープを投げた。傷ついた部下を、ロープにむすびつけるUボートの艦長クルト・ユルゲンス、これを引く駆逐艦の艦長ロバート・ミッチャム。
その後は、両艦に生き残る船員たちが敵味方に関係なく救助し合う。。。
僕は強制的に親父にこの映画を見せられた次の日、どんな内容のテストを受けたのかは全く記憶にない。というより中学時代、とくに記憶する授業や何を学んだかも定かでない。
でも、テスト前に観たこの映画のことは鮮明に覚えているし、その後数え切れないほど繰り返しこの「眼下の敵」という映画は視聴した。
この映画からは、男の美学のようなものを学んだと思う。
それ以降も、常に映画は僕の生活の中にあった。
それは今も同じ。
死んだ親父から貰った、ただ一つで最大の贈り物だ。
僕は高校は普通科の高校へ通っていました。ほとんどが大学へ進学する高校でした。
当然僕も途中までは大学へ行くものだと普通に思っていました。
ところが高校3年生の夏休み、図書館で受験勉強していると突如「あ、自分は映画やドラマを創らなくてはならない」という感覚が、突如自分の内面から湧き上がってきました。
それは衝動とでもいうような凄い感覚で、間違いなくその感覚に従わなければいけない、という感覚も同時に到来しました。
僕はその後、高校在学中から大阪にある脚本家の養成学校に通い始めました。
そこでドラマを創る、ドラマツルギーを学びます。
そしてプロの講師の先生について、数えきれない程の原稿を書きました。当時はまだワープロも無い時代だったので、原稿用紙に手書きです。
アルバイトをしながら、ひたすら原稿を書いてプロを目指していました。が、そんなに簡単に入れる世界ではありません。
そんな中、僕はある一冊の本と出会います。
今から思えば、その本の内容は今でいう「引き寄せの法則」が書かれていました。でも当時はまだ「引き寄せの法則」という言葉も無く、その本の中では「信念は必ず実現する」みたいな表現でした。
最初は疑心暗鬼でしたが、プロの世界に入りたいという藁をも縋る思いでその本に書かれている事を1カ月間実行してみました。
すると、1カ月後思わぬ形で芸能界という世界に入れたのです。
商業劇場の演出部に、事も無く簡単に入れたのでした。

20代は舞台の演出、30代はシナリオライターで自分が当初やりたかったドラマを創るという仕事が出来ていました。
1995年神戸を襲った大震災で当時地元でしていたドラマ脚本の仕事も、親戚も、友達の多くも無くして、全てを一時失いました。
しかし、そんな禍の中で出会ったのがインターネットという新しい仕組みでした。
まだモニター画面も白黒の時代、ニフティサービスがBBSを提供していた時代。僕はモニターの中で文字だけだけど、人々が交流する姿を見ました。とても興奮したのを今でもよく覚えています。
これからの時代、きっと個人でも番組なんかを作れる時代がきっとくる。
それ以来僕は独学でインターネットというものを覚えました。
そして企業が必要なHPの制作や、企業のインターネットを活用するコンサルティングの仕事をフリーランスでするようになります。
インターネットはそれまでの仕事よりも数段おもしろかった。
それまでは自分が表現したいことを電波や紙媒体を通じてしか表現出来なかった。ドラマを創るにしても脚本、演出家、役者、ミキサーなどの分業を必要していた。しかしそれらがインターネットの仕組みでは、技術さえ覚えればワンストップで出来る。
僕は新しい玩具を手に入れたように、その技術をどんどん覚えていき仕事に活用していきました。
AIが進化してきた現代、優れたAIはアートも描くし楽曲も創り出す。そして簡単なストーリーも創るそうだ。
そうすれば将来、人間は映画やドラマを創作する領域はなくなってしまうのだろうか。
否。僕はけっしてそうならないと思っている。
なぜなら人間とAIには決定的な違いがあるからだ。
それはAIがいくら進化しても真似の出来ない点が一つだけあるからだ。
それは、、、
AIは基本、間違いを起こさないように設計されるものだ。
それに比べれば人間はどんな時代、どんな環境、どんな人でも必ず「間違い」を犯すものだからだ。
全てのドラマは人間同士の「過ち」が大きな原動力になっているものが多い。
思い違い、誤解、コミュニケーション不足などで人間同士がすれ違う。
人間がこの三次元世界で生きる限り、そういう対立構造は無くならないと僕は思っている。なぜならこの宇宙全てが相対的に出来ているから。相対とは対立構造で成り立っている世界なので、そう簡単に融合することはない。
そういう世界を体験したいがために、僕もあなたもこの世界に生まれてきたのだから。
なので、そういうややこしい世界を大いに体験したらいいと思う。
そういう互いを気づ付け合うかもしれないややこしいヤバイ世界を踏まえて、理想的な世界を目指す。
これが進化というものだと僕は思う。
映画はこういうややこしい人間同士の葛藤、対立、を数えきれないほど描き出している。そしてそのややこしい現状を、知恵の限りどう超えていくかということもそれぞれの映画作家たちは考え、観る者に提案してくれる。
僕の人生バイブルは映画だった。
そしてこれからも、映画を人生のバイブルとして観ていくだろう。
それを教えてくれた親父に感謝。。。
