美しいことは正しい

物事を最初から「これは正しいか、間違いか」と判断することは危険だ。俗に「正義感の強い人」と言われる人もいるが、それも危険極まりないことだ。
なぜ「正義」を主に考えてはいけないのかと言いうと、正義という極を作ると、必ずその反対の「悪」がそこには存在することになる。
「正義」と「悪」という相対関係の構図が生まれる。
「正義」と「悪」という相対が出来ると、そこには争いが必ず起こる。お互いが「正義」を主張して対立するからだ。
その大規模な図式が、世界的な対立による戦争ということ。
それが「正しいか正しくない」かは、主に主観によるものだ。主観は絶対的なものではない。
その国、その地方、その風習によって善悪が変わる。
複数の女性と付き合うことは日本では不道徳だけど、国が変われば複数の女性と結婚することがステイタスであり、普通に許されている国もある。
そういうことなのだ。
では何を基準にするかと言えば見て感じるものが「美しいか美しくないか」を判断基準にするべきだ。
京都奈良に建造されている社寺仏閣を見て「これは間違いだ」と思う人はほぼいないだろう。その荘厳さに見とれて思わず「美しい」と感じるのではないか。
この古い建造物は数百年経つが、構造物自体はしっかりと存在し続けている。つまり、その建築法は「正しい」ということなのだ。
美しいことは正しい。
これが僕が何かを見る基準としている理由です。
日本人は何を考えているのかわからない国民性とよく言われるが、わかっていないのではなく対極する事がわかるから、そこをぼかしたり、敢えて中庸をとることが出来る国民性だったのだと僕は思う。
それは知性の高さを物語っている。
またこれからの時代は、このブレない絶対基準が必要な時代だとも思う。