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ファールボールの幸運

5年前の華々しい時代に執着し、引退を遅らせてしまった藤村。引退後野球人としての出発の地、神戸に帰ってくる。数年前の打撃練習で打ったファールボールが彼にもたらす意外な幸運とは・・・

※このドラマは音声で聞くことが出来ます。
https://ushioda-masaaki.com/mp3/foulball-luck.mp3?_=1

スラッガー

S E ドアの開閉の音

マスター :いらっしゃいませ。

男性客  :今晩は。

マスター :お飲み物、何にいたしましょう?

男性客  :バーボン。

マスター :確かストレート、でしたでしょうか?

男性客  :(ちょっと驚いて)は、はい・・・

マスター :かしこまりました。

S E ドリンクを作る音

男性客  :覚えていてくれたのですか?

マスター :お元気でらっしゃいましたか?

男性客  :はい。

マスター :どうぞ。

男性客  :ありがとう。

マスター :今日はこちらでゲームがあったのですか?

男性客  :いいえ・・・

マスター :では、お里帰り?

男性客  :(苦笑して)まあ、そんなところです。

マスター :そうですか。

男性客  :やっぱり神戸は生まれ育った街、落着きます。

マスター :ごゆっくりご休息して下さい。

男性客  :このお店はまだ自分が在阪球団にいた頃、時々寄らせてもらった。もう5年も前です。

マスター :早いものですね。

男性客  :なのにマスターは自分のことを覚えていてくれた。もう自分のことを覚えてる人なんて、いないだろうと思っていました。

マスター :お客様・・・

男性客  :ああ、マスターはお客の1人として覚えていてくれたんですよね。

マスター :いいえ、勝負強いスラッガー、藤村哲也選手。1ファンとしてよく覚えております。

引退

男性客  :もうそんなコケの生えた話、今じゃ誰も覚えていません。マスターくらいなもんですよ。

マスター :お客様・・・

男性客  :こっちのチームで活躍したって言っても、フルシーズン出場した年はありません。一番調子の良かった年でも3ヵ月。後半はほとんどがファーム暮し。

マスター :63年の首位攻防戦。最終回でのサヨナラホームランもよく覚えております。

男性客  :あの頃が自分の一番いい頃でした。その翌年関東のチームにトレードされましたが、結局上には最後まで上がれなかった。

マスター :お客様・・・

男性客  :そうなんです、もう現役の選手藤村はいません・・・引退しました。

マスター :引退・・・

男性客  :本当は5年前、あのサヨナラホームランとともに現役は引退するべきだった。

マスター :・・・

男性客  :でも、野球がやりたかった。どうしても・・・代打でも、守備要員でも、なんでもいい・・・あのカクテル光線の中に、もう1度だけ立ちたかった。

マスター :お客さま・・・

男性客  :結局あっちのチームでは、1軍の公式戦には1度も出場出来ませんでした。

マスター :・・・

男性客  :男のくせに、引際がみっともないですよね。

マスター :いいえ。全力を最後まで尽くしたのだから、正しい選択だったと思います。

男性客  :ありがとうマスター。自分では悔いだらけの現役時代だったけど、そう言ってもらえるとちょっとは救われます。

S E ドリンクを作る音

マスター :どうぞ。これは、私1ファンとして藤村選手へ労いと、感謝の気持ちです。

男性客  :(感激)マスター・・・

再就職

男性客  :最後のチームで引退後、球団関係の仕事を幾つか斡旋してくれたんだけど、どうしてもこっちへ帰りたくて。

マスター :そうですか。

男性客  :やっぱり関西で高校、プロと自分が出発した土地だから、第2の人生もここから始めようと考えました。

マスター :自分の原点に返る・・・

男性客  :カッコよく言えばそうなるかもしれません。

マスター :いいことだと思いますが・・・

男性客  :でもはっきり言って、仕事がまだ見つからなくて・・・考えれば自分は野球しか知識も能力もありません。友人といってもやっぱり野球関係ばかりです。商売を始めろと言われても2軍暮らしの選手にそんな蓄えがあるわけじゃなし、たとえ始めても野球の事しか知らない自分が成功するはずなどありません。

マスター :お客様・・・

男性客  :すみません、こんな事マスターに喋ってしまいまして。

マスター :いいえ。

男性客  :家内と子供の事考えると、不安で、つい・・・

マスター :大丈夫ですよ。

男性客  :え?

マスター :あんな大きな球場で、あんなに大勢のファンの期待と応援に応えてホームランを打った人です。きっとまたチャンスは巡って来ると思いますが・・・

S E ドアの開閉の音

マスター :いらしゃいませ。

女性客  :こんばんわ。

マスター :お飲み物は何をお作りしましょう。

女性客  :ジンフィーズください。

マスター :かしこまりました。

S E ドリンクを作る音

女性客  :あの、失礼ですけど・・・藤村さんじゃないですか。あ、間違ったらごめんなさい。

男性客  :藤村です。

女性客  :やっぱりそうだ!(はしゃいで)マスター、藤村選手よ、知ってます?

マスター :はい。

女性客  :その節はありがとうございました。

男性客  :え?

再会

女性客  :本当にありがとうございました。

男性客  :すみません。自分は記憶力悪い方で・・・

女性客  :以前お会いしましたのは病院の病室でした。

男性客  :自分が怪我で入院していた時ですか?

女性客  :いいえ、逆です。私が入院してたんです。

男性客  :はあ・・・

女性客  :そこへ藤村さんがわざわざお見舞いに来てくれたんです。お花をいっぱい持って。

男性客  :自分が見舞いに?

女性客  :スタンドにいた私の所へ、藤村さんが打ったボールが飛んできたんです。

男性客  :ああ(思い出した)・・・あの時の・・・

女性客  :はい。

男性客  :あのときはすみませんでした。試合後すぐに移動だったから十分なお詫びが言えませんでした。

女性客  :いいえ、お詫びしなければいけないのは私の方なんです。

男性客  :え?

女性客  :私の父が藤村さんの以前のチームの熱狂的なファンなんです。あの日は一緒に行くはずだった友人に急にキャンセルされて、私を無理やりお供にしたんです。その頃私は野球なんて全く興味ありませんでした。

男性客  :それでは、なおさら運が悪かった。

女性客  :試合前の打撃練習の時です。始めて野球を見に行ったのでどこを見ていたらいいのかわからなくて、あのときは確か外野の芝生が奇麗だと見ていたと思います。そこへ藤村さんの打ったボールがファールで飛んできて・・・

男性客  :それが当たった。

女性客  :実は当たらなかったんです。

男性客  :でも、あなたはひどい怪我をしていた。

女性客  :その事をいつか藤村さんに会えたら謝ろうと思っていたんです。

男性客  :じゃあ、あの怪我は?

憧れの人

女性客  :あの時の怪我は、私の父の責任です。

男性客  :まさか?

女性客  :確かにボールが飛んできて、父は咄嗟に私を庇おうとしました。そのはずみに押されて、階段を転げ落ちたのです。

男性客  :そうだったのですか。

女性客  :係員の方も咄嗟のことで間違えて報告したのだと思います。

男性客  :はい、確かにホール係から少女に打球が当たったと聞いたものですから、試合後慌てて駆けつけたのです。

女性客  :まさか藤村さんみたいな有名な方が来て下さるなんて思ってもなかったから、私言葉が出なかったんです。

男性客  :でもやっぱりあなたが怪我をしたのは、自分の責任です。

マスター :お優しい方ですね。

女性客  :そうなんです、あの時藤村さんきっと時間が無かったのにわざわざ来てくれて、丁寧に謝ってくれたんです。だからそれ以来藤村さんの事が大好きになって、野球する人も好きになって、野球自体が大好きになりました。

マスター :よかったですね。

女性客  :だからそのお礼とお詫びをいつか言おうと、あの日以来ずっと思っていました。神様の導きよね、マスター。

マスター :はい。

女性客  :でも・・・

マスター :どうされました?

女性客  :とっても残念です。

男性客  :どうしてですか?

女性客  :もう藤村さんの現役の姿は見れないのでしょ?

男性客  :どうして、自分が引退したこと・・・自分の引退など新聞も扱っていないのに・・・

女性客  :球団に電話で問合せしたのです。今度東京へ行く用事があったものですから。2軍の試合場所を聞いて、その時藤村さんも出ますかって聞いたら・・・

男性客  :ごめんね。

マスター :お客様・・・

ファールボールの幸運

女性客  :今どんなお仕事されているんですか?やっぱりコーチとか後輩の育成ですか?

男性客  :いや・・・無職なんだ。

女性客  :嘘でしょ!藤村さんみたいな凄い選手だった人が・・・

男性客  :自分なんかプロの世界ではたかだかしれていた。現役の大半は2軍だったから。

女性客  :もう野球はされないのですか?

男性客  :やりたいけど、まず家庭を養わねばならない責任がある。

女性客  :そんな・・・

男性客  :君の夢を壊すような事言って悪いけど、明日タクシー会社の面接を受けようと思ってる。

女性客  :ちょっと待って下さい。

男性客  :え?

女性客  :父がコーチを探しています。

男性客  :コーチ?

女性客  :父は会社を経営してて、弱いんですけど一応野球のチームがあるんです。私はそこでマネージャーをしてます。

男性客  :お父さんの会社って?

女性客  :牧野真珠っていいます。

男性客  :すみません、その辺のことは疎くって知りません。

マスター :あの有名な牧野パール。

女性客  :以前のコーチが長期入院で今探しているところなんです。藤村さんから見ればほんと草野球なんです。だからこんなことお願いするの、ほんと失礼なんです。

マスター :(よかったですねと)お客様。

男性客  :野球のコーチ・・・

女性客  :父と会うだけでも・・・父は私以上に藤村さんのファンでした。だから会って下さるだけできっと感激します。

男性客  :(感激)マスター・・・

マスター :やっぱり9回の裏にチャンスが巡ってきましたね。

おわり

「ファールボールの幸運」
Story by ushi

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