港近くにあるBAR”MOON STONE”。神戸の夏に打ち上げられる花火4000発が咲き誇る夜、明日香はBAR MOONSTONEにいた。花火と共に終わる失恋ラブストーリー。
店内
BAR”ムーン・ストーン”には彼女以外に客はいなかった。
時折遠くで地響きのような轟音が響き渡る。
ブラックとグレーを基調とした店内。灯りは、数箇所のダウンライトだけで、漆黒色で出来た長いカウンターが雰囲気を落ち着かせている。ミラー張りになっているボトルカウンターには色とりどりの酒瓶が並ぶ。ボトルはそれだけでその空間の装飾となって美しい。
カウンターの中にはバーテンの若い男が一人だけいた。名前は上月和真(こうづきかずま)といい29歳だが、この店のオーナーマスターをしている。客がいないカウンターで上月はデッシュタオルでグラスを念入りに磨いていた。
カウンターとは別にテーブル席が3つある。色はブラックで木製の重厚な造りのものだ。テーブル中央にはダウンライトが一筋だけ落ちてくるようになっている。そのテーブルのひとつに、瀬戸明日香はいた。夏らしいワンピースにブルーのストラップサンダルを履いている。髪も夏らしいショートカットが涼しげだ。
再び遠くで”ドーン”という轟音が響いた。
明日香は読んでいた文庫本から眼を離し、音のする方角を見た。顔を上げた拍子に上月と眼があった。
「もうそろそろ終わる時間です」
と上月は、確認するかのように時計を見て明日香に言った。
明日香は上月の言葉を聞いて、コクンとひとつ頷いた。テーブルにある明日香がオーダーしたライムコークの氷はほとんど溶けていた。
「今日みたいな日に、ひとりで来るお客さんってわたしくらいなものですよね」
明日香は、恥ずかしい思いと寂しげな表情の入り混じった顔を上月に向けた。上月は、一瞬なんと言葉を返していいものか迷った。上月は明日香の心中を察することが出来たからだ。
花火まつり
8月の第1週の神戸では「みなと祭り」という夏のイベントがある。そのメインを飾るのがハーバーランド沖から打ち上がる4000発の打ち上げ花火の競演なのだ。この日は神戸だけでなく、近郊の都道府県から来る多くの人で港は賑わう。
上月の店がある元町は、ハーバーランドの身近にあるためその花火の轟音が十分に聞こえてくるのだ。それは身体の芯まで響き渡るような重厚な音響だった。
本来なら今日は明日香は、彼女が想う人と一緒に花火を見学に行くのだったのに。上月は彼女に対して、半ば申し分けない気持ちでいっぱいだった。
半年ほど前の冬に、上月は自分の友人の島田公一郎を明日香に紹介した。島田は上月の高校時代からの親しい友人だった。高校を卒業してからも上月と島田は、付かず離れずの交友を保っていた。
島田は高校時代からスポーツマンで、冬はスキー夏はウィンドサーフィンを楽しんでいた。上月は数年前までは島田とよく、冬山に夏は海へと行ったのだが、自分の店を出して以来すでに行くことはほとんどとなくなっていた。
そんな島田を明日香に店で紹介したのは、昨年のクリスマスの数週間前だったように記憶する。どちらも恋人がいないということで、上月の店でほぼ自然な形で引き合わせたのだった。
二人はすぐに意気投合したようだった。クリスマス・イブには神戸で有名なホテルレストランでロマティックな食事をしたと、島田はご丁寧に上月に報告しに来たのを覚えている。その後も二人で、上月の店にはよく飲みに来てくれた。
自分が紹介した二人が、仲むつまじくしているのを上月は心底嬉しく見ていた時期もあった。
初夏を迎えようとしていたある日、明日香が一人で店にやって来た。いつもは必ず二人で来ていたので、上月は何気に島田のことを聞いた。その時の明日香のかすかな表情だけで、上月は島田が彼女から離れたことを察した。
その後数日して、島田の噂を彼の仲の良い友人たちから聞いた。やはり新しい恋人を作ったみたいで、その新しい彼女はどうやら夜に勤める女らしい。
それを聞いた時に上月は「しまった」と思った。
ボーンヘッド
高校時代、上月と島田は同じ野球部員だった。高校生ともなると男同士の会話はやはり女の子の話題が多い。部室でよく女性の好みの話をしていた時、島田はよく大人っぽい水商売の女性がいい、と高校生ながら言ってたものだ。上月は彼のそんな台詞を思い出した。
明日香は全くそんな風情の女性からはほど遠い。まだあどけない顔と細身のスレンダーなボディは、どことなく少女の香りもする。
「あの野郎、遊んだだけだったのか」
上月は、言葉にこそしなかったが確信した。
「俺のボーンヘッドと言えば、そうなるが」と反省した時には、すでに遅かったという次第なのだ。
まだ夏を迎える前、明日香が今年の夏はやっと恋人と神戸の花火を観に行けると嬉しそうに微笑んでいた。すでに約束もしていると言っていた。明日香は、その花火大会の今日、ひょっとして島田がひょっこりこの店に迎えに来てくれるではないかと待っていたのだ。
それは、明日香が誕生日に彼から買ってもらったという夏用のサンダルを履いて来ているので安易に想像出来る。
彼女は、まだ彼のことを想っている。そう思うたびに上月は、目の前にいるあまりにもか弱そうな明日香に胸が痛んだ。
ラムコークのお代わりを明日香のテーブルに持って行った時には、すでに花火が終了して1時間半が経過していた。いまだ店内には明日香意外客はいなかった。
「ありがとうございます」と言う言葉と「ごめんなさい」と明日香が小さく言った。彼女一人のために店を開けさせていることを、上月に詫びたのだ。彼女は文庫本を持っていたが、すでに文字を追っていない。
「もう島田のことは諦めてくれないかい」
明日香は、顔を上月に真っ直ぐに向けた。表情が見る見るくしゃくしゃになった。涙が見る間に両眼から溢れてきた。ダムが決壊したかのように、涙は溢れてくる。次の瞬間にワッと両手で顔を覆い、明日香は小さな引きずるような声を上げて泣いた。肩が小刻みに震えていた。
ワインドアップ
上月は、フッと小さく息を吐いてダウンライトを見上げた。
「もう彼は君のことを愛してないんだ。今頃は違う女と一緒のはずだ。紹介したのは実際僕だけど・・・」
「いいえ、島田さんを紹介してくれて、ありがとうございました」
明日香は、震える声で力いっぱいそう言った・・・
今の彼女にはいささかショックを与えるかもしれないが、いっそはっきりと言い放つ手段に上月は出た。吉と出るか凶と出るかは、彼にもわからなかった。が、すでに言い出したので次の台詞も上月は続けた。
「もう、そのサンダルも脱ごう。今日一緒に彼と夜の港へ行く約束をしてたのは知ってる。でも彼は来なかった。そして、これからも来ないんだよ」
明日香は、受けたショックと事実を改めて聞こうとしているのか、泣き声は止まっていた。
「僕は高校時代、ピッチャーをしてたんだ」
上月の突然の脈絡のない台詞に、明日香は一瞬キョトンとした顔を向けた。
「スピードはそんなになかったけど、コントロールはよかったんだ」
そういい終わると、上月は店のブラインドを降ろしBGMを切った。
「君はコントロールはいい方かい?」
上月の運転する4駆はメインストリートをはずして、裏道を抜けて走っていた。助手席には明日香がいた。
「どこへ行くのですか?」
明日香が、運転する上月に聞いた。
「そのサンダルを返しに行くのさ」
「え!?」
ゲームセット
明日香は、驚いた表情を上月に向けた。上月は明日香に軽くウィンクしただけでフロントガラスの前方を見た。
「モーションはワインドアップで投げるんだぞ、いいな。島田は内角に昔から弱かった。ストレートで十分だ」
上月があまりにも力強く言ったので、明日香は意味が分からなかったが頷いていた。
車は坂の麓に駐車しておいた。二人は緩やかな坂道を登っている。住宅とマンションが並ぶ地域だった。5階建てのレンガ造りのマンションの前で上月は立ち止まった。
「あそこの2階の一番東の部屋だ」
上月は、正面のマンションの右斜め前方を指差した。
「さあ、君のサンダルを貸して」
一瞬躊躇したが、明日香は履いているサンダルを脱いで上月に手渡した。上月は笑顔で、明日香からサンダルを受け取った。
「俺の投球フォームをよく見ておくんだよ」
明日香は、大きく頷いた。
「いいか」
というと、上月は右腕を2、3度大きくグルグル回して、野球の投手よろしく振りかぶった。右手に持った片方のサンダルの踵辺りをボールの直球の握りで硬く持っていた。
左足を高く上げて、右腕を大きく振りぬいた。明日香のサンダルは夜の街灯の明かりの中を放物線を描いて飛んだ。次の瞬間、ガシャンというガラスの割れる音が響いた。
「さあ、次は君の番だ」
上月は、もう片方のサンダルを明日香に手渡した。何が起こってるのかわからない明日香は、大きな瞳をさらに大きくしていた。
「俺が割ったガラスのもう片側を狙え、さあ早く!」
上月の声に気押された明日香は、先ほどの上月のフォームを見よう見真似で、自分の片方のサンダルを投げ抜いた。上月はそのサンダルの行方を見ていたが、思わずガッツポーズを見せ飛び跳ねた。先ほどに続いて、激しいガラスの割れる音が辺りに響き渡った。
割れたガラスの部屋の中から女性の叫び声が聞こえた。
「さあ、逃げよう!」
上月は、明日香の手をとり坂道を下って降りた。
割れたガラスの部屋からは、上半身裸の若い男が顔を出して辺りをキョロキョロ見回していた。
二人は元に停めていた4駆に両サイドから乗り込んでドアを同じく閉めた。エンジンを掛けて車を出した。ハンドルを切りながら、上月は明日香に言った。
「君は投手としての、いい素質があるよ」
明日香は、先ほどの涙が嘘のように本来の彼女らしい少女のような笑顔を上月に見せた。
おわり
「BAR MOON STONE」
Story by ushi