神戸での大学生活をあと数日で終えようとしていた日、知恵は長年恋心を抱いていた男に残り8日間だけの恋人にして欲しいと切ない思いを込めて迫った・・・
伊吹知恵(ともえ)と書かれたタイムカードの最終時間はpm9:12だった。
すでに女子更衣室で着替えを済ませ、スタッフルームにあるタイムカードに知恵はスタンプを押したところだった。
「このスタッフルームでタイムカードを押すのもこれが最後ね」
そう思うと知恵は長くもあり過ぎ去れば短くもあったアルバイト生活を思い巡らした。大学の卒業式も後数日に控え、在学4年間アルバイトをした神戸のこの店の勤務も今日で最後となる。
すでにアルバイト仲間には二日前に送別会もして貰い、知恵の好きなリトルアーティストの大きな花束をスタッフ一同から貰った。花束は知恵の意向で店内入り口の飾り棚に飾らせて貰っている。「私のことを忘れないでね」という知恵からのみんなへのメッセージのつもりで置いたのだった。
狭いがコンパクトにまとめられてあり、長年使わせて貰ったスタッフの休憩室を知恵は最後にひとしきり見回した。バイト仲間で休憩時間などでお喋りをした想い出が再び自然と巡ってくる。
ドアの前で小ぶりのバッグを両手で身体の前に持ち、知恵は深々とその誰も居ない部屋に頭を下げた。ドアを開け通路を店内へと向かった。知恵の姿を見て調理場のコックさん達が知恵に寄ってきた。各スタッフへの最後の挨拶はすでに制服姿の時に今日済ませてあったので、みんなは笑顔で手を知恵に差し出しただけだった。知恵はそれぞれに笑顔で握手をした。
なんど「お世話になりました」と言っても、これが最後なんだと思うたびに知恵は目頭が熱くなった。
ホールに出ると、厨房の気配で察したのか手空きのホールスタッフもレジの前に集まり知恵を迎えてくれていた。知恵はそのスタッフ達とも一人一人握手を交わした。最後に色黒の料理長が「がんばれよ」と笑顔で頭をなでてくれた。ひとしきり世話になったこの料理長の最後の言葉で、知恵はついに涙を流してしまい頭を深々と下げた。
料理長はレジの上に用意してあった、小さな花束を知恵の前に差し出した。先日知恵に送られたリトルアーティストが4本束ねてある。おそらく知恵が置いた飾り棚の花束の中から4本だけ取ったのであろう。4本は知恵が在籍した年数分で、4年間の思い出を意味するのだろう。
知恵は何度も何度もみんなに向かってお辞儀をした。背の高いアルバイトの男の子がドアを開けてくれた。知恵は小さな花束を胸に抱き頭を下げながら表に出た。
最後にみんなに向かって、ガラス越しに大きく手を振ると別れの悲しさを振り切るように知恵は横断歩道を走って渡った。
BAR「サラトガ」の店内は、アメリカの雑貨を無造作にちりばめた中にあるようだった。壁にはジョンレノンのタペストリーが掛かり、その横には1974年に上映されアカデミー7部門を受賞した「スティング」の懐かしいポスターもある。
カウンターの上にはTVドラマで人気を博したキャラクターのグッズがところ狭しと並べられている。おそらくマニアなら垂涎物なものもたくさんあることだろう。
サンダーバード2号をバッグにコリンズグラスに入れられたリトルアーティストの花を知恵は眺めていた。リトルアーティストとはミニバラの一種で銀色の蕾が次第に開いていくと、赤い花びらになる。可能性を秘めた芽生えの時期は大層美しい。
「夢見る時期が長いほど、幸せなのよ」思春期に母親がフト言った言葉が、今の知恵にはしみじみ愛しく思える。
「4年間おつかれさん」
その声と共にコーデュロイのシャツを袖捲くりした逞しい腕が、知恵の前にシンガポール・ジン・スリングを置いた。
年中休みの日をサーフィンで過ごして日焼けした顔が印象的なこのBARのマスターが知恵に労いの気持ちを添えてそう言った。名前は菊池晋吾という。
「ありがとうございます」
リトルアーティスから目を上げて、知恵は微笑んで言った。
「早いものだ。もう卒業か」
菊池は広く両腕をカウンターについて知恵に言った。
「ハイ、楽しいことばかりでアッという間の4年間でした」
「俺も今気がつけば30も半ばになってる。トモちゃんが言ってくれなかったら40になるまで気がつかないところだった」
菊池はそう言い終ると、自分の飲みかけのロックグラスを知恵の前に差し出した。知恵はそのグラスを見ると、自分のカクテルグラスを右手で持ち上げた。
「卒業おめでとう!」
「卒業は8日後ですよ」
「では、4年間アルバイトを勤め上げたことと、このサラトガに2年間通い詰めてくれたことに」
「ありがとうございます」
菊池の方からゆっくり知恵のグラスに軽く当てた。
「でも君は僕が知る2年間で神戸が似合う大層な美人になったもんだ」
「そんなこと言ってくれるのマスターだけです」
知恵は少しはにかむように俯き言った。
「島根に返すのが勿体ないよ。神戸市民として」
知恵は神戸での就職を強く願ったが、父親の推薦とする地元企業への就職が半ば強制的に決められていた。知恵も隠れて神戸・大阪での就職を探していたがこの不況の中運悪く、知恵が希望する企業が見つからなかったのもある。
「神戸に帰れるように縁結びの神様にお願いします。近所だから」
「出雲大社の近くだったんだね」
「車で10分の距離です」
「それは心強いね。神様が身近だと」
「あと8日しか居られないんだ、神戸にも」
溜息混じりに知恵がそう言った。
「そんなにしょげるなよ。直行バスもあることだし島根くらいなら来ようと思えばすぐだ」
「距離じゃなく気持ちなのです」
「なるほど。ニュアンスはよくわかるよ。よし、それじゃ神戸の思い出にこの店にある俺のコレクションの中から好きなものをひとつあげよう」
菊池は大げさに両手をいっぱい広げて、大道芸人のような口調で知恵にそう言った。
「ほんとですか!」
知恵は目を輝かせて言った。
「ああいいですとも、お嬢さん。君に選んで貰ったモノはラッキーグッズとなるだろうね」
「ありがとうございます」
知恵はすでに立ち上がっていた。すでに見慣れた壁にところ狭しと並んでいる品をひとつひとつ丁寧に眺めた。菊池はカウンターの端に立ち、ショッピングをしている客に声を掛けるタイミングを図っている店員のような格好で知恵の後姿を見て微笑んでいる。
天井付近の棚を見上げたまま、知恵の動きが止まった。
「高いところは取ってあげるよ」
菊池は知恵が見上げている視線の先を見ながら、知恵に近づいた。
「どれかな?」
「マスター・・・」
知恵は呟くやくように菊池に呼びかけた。
「ん?」
「モノじゃなくてもいいですか?」
「現金かい?」
とぼけたマスターの冗談にも、笑わずに知恵は首を振った。その知恵の態度に菊池も「?」となり、いかにも疑問を現すように両手をジーンズのベルトに当てて知恵の真正面に立った。
「わたしを『ぎゅっ』て、して貰えませんか?」
菊池は小首を傾けて、知恵の顔を覗き見た。知恵は菊池を見ようともせず俯いている。あきらかに恥ずかしさを隠してる風だ。
「ダメですか?」
「いいよ」
菊池は自然な言葉で答えた。そして直立している知恵を真正面から優しく抱きしめた。
「1、2、3、4、5、6、7、8」
と菊池はカウントし、知恵から身体を離した。
「なんですか、今のカウント?」
知恵は不可思議な表情を菊池に向けた。
「子供を親が抱擁するのは8秒間がベストらしい。それ以下だと寂しがるし、それ以上だと甘えたになるそうだ。今日TVで専門家が言ってた」
知恵は急に菊池の胸に両手を付いた格好で、彼を壁際までそのまま押しつけた。そして力いっぱい菊池の胸に顔を埋めた。
「そんなんじゃダメです!ちゃんと抱きしめて下さい」
壁を背にした菊池は、自分の胸の中にいる知恵をゆっくりと抱きしめてやった。長い抱擁の後、ゆっくりと知恵は真上にある菊池を見上げるように顔だけを上げた。
「キスもセットということかい?」
知恵は口元で悪戯っぽく微笑み、頷くだけで意思表示した。知恵の顔に覆いかぶさるように菊池は知恵にキスをした。長く優しいキスシーンだった。
唇を離し、二人は見詰め合った。
「恋人にしてください」
菊池は声を上げて笑い出した。
「それは大値引きをした商品を手に入れて、さらにそれ以上高価な商品をおまけに付けて下さい、って言ってるようなもんだぞ」
「ダメですか?」
「でも君は後8日しか神戸に居れない」
「それでもいいんです」
「8日間の恋人か、まるで映画のタイトルみたいだな」
菊池はそう言いながら知恵を見詰めた。知恵も嬉しそうに菊池の胸に再び顔を埋めた。二人の後ろにはポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのポスターがあった。店内のBGMはいつしか、ジョン・レノンの「スターティング・オーバー」が流れていた。
カウンターの上には、弱い空調の流れでリトル・アーティストの花びらが小さくダンスをしていた。
おわり
「8秒間の抱擁」
Story by ushi