タイトルを一言で「優しさ」と言わず「男の優しさ」「女の優しさ」にあえて分けました。
その理由は、男と女というものは性別だけの違いだけではなく、考え方、物の捕らえ方にもそこには深い溝がいつになってもあるからです。その埋め難いどうしようもない溝に、時に深い溜息と共に動かし難い徒労を感じたりもします。
ひとえに「優しさ」と言えども、男性が思う「優しさ」と女性が願う優しさの根本ははっきりと違います。
書き方により女性から賛同を得る書き方も、男性から「そうそう」と言われる書き方のどちらでも出来るのです。
物書きを生業としていた者は、事象をどこから見るかによって、肯定することも否定する書き方も出来ます。それが出来ないとメシの食い上げになるからです。それがプロというものなんです。
では今回はどうしましょう?
今回は本音で書こうと思います。
では、いつもは本音じゃなかったのか?と、突っ込まれそうですが、その辺りは微妙です。本音は本音でありましたが、まあ例えるのならみねうちみたいな表現を使ってましたね。
最近少し心の変化がありまして、これから表現する僕のメッセージは「本音」を主にしていこうと決めました。(その心の変化はまたどこかで書くとします)
さて、本題の「男の優しさ、女の優しさ」です。
僕の結論から言いますと「女性はともすれば具体的な行為にしか感応しない種族であって、次元の高い精神的な優しさを解ろうとしないことの方が多い」ということです。
これから考えますと、女性にモテようとするなら、より具体的に女性が喜ぶことを目に見える形でしてあげれば良い、ということになるのです。
西欧には「レディーファースト」という伝統的なマナーがあります。
このレディーファーストというのも、まことわかり易い形に出来ています。
道を歩くときは、女性を安全な道路の内側に歩かせてあげる。ドアがあるなら男性がドアを開けて、女性を先に入れてあげる。車に女性を乗せてあげる時には、助手席のドアを開けてあげて乗せてあげるなどなど。。。
どれもとってもわかり易い形です。
しかし男のほんとうの優しさ(男側から思う)の多くは、すこぶる概念的な形となり現れるのです。そこには本当の意味で相手を尊重し、思いやりは内に秘め、密かな配慮と共に行われることが多いのですよ。
僕の経験した具体的な例を言います。
僕は20代の頃、女性と一緒に暮らしていました。当時僕は自分がなりたかった舞台監督という仕事をえて、大阪、名古屋、東京と年中劇場仕事をしていました。自分のなりたかった仕事に就けて、仕事自体が楽しいということももちろんありました。
ひとつの仕事を請け負うと、劇場は1ヶ月公演となります。その前の稽古期間を入れると地方では1ヶ月半ほどはその土地での泊まりの仕事となります。その間はまるまる家を空けるということになります。
好きな仕事ではありましたが、フリーな仕事なので出来るだけ僕に依頼が来る仕事はこなそうと思いました。サラリーマンではないので、保障がないからです。
そして少しでも稼いで、一緒に暮らしている彼女に多少なりとも多くのお金を渡してあげようと思っていたのも事実です。そしてその甲斐もあり、住む家や家財道具も少しずつ良くなりました。
僕はそれが彼女への優しさだと、自分では思っておりました。
でも、ダメだったのです。
彼女から見れば、僕は自分が好きな仕事だけをして、1年の多くも家に帰らず芸能界の綺麗な女性と毎日会ってる。二人の間にはコミニケーションがなく、自分はなんのために僕といるのかわからない。というのが、彼女が感じた最終的な気持ちだったのです。
そして彼女は僕の元から去っていきました。
その時に僕が学んだことは、より具体的に相手に与える優しさです。コミニケーションの大切さです。言葉の大切さです。
僕はそれを学び、女性から「優しい」と言われる男になりました。今もそう思ってくれる人は多くいると思います。
でも、その本質はいまだそうではないのです。
何が違うのかということですが、僕が思う「優しさ」と女性の多くが思う「優しさ」の本質的な違いがあるからです。
僕はその後も何人かの女性と一緒に暮らしましたが、そこでも最初に犯したと同じような展開で彼女達は僕の元を去っていきました。
簡単に僕を見ていると、何回ともなく同じ過ちを犯している。と見られることでしょうね。そう言われれば、確かにもっともなことなのです。
僕が思う極論を言いますと、女に誤解されて怒られても、懲りずにまた誤解されるのが男の優しさでありダンディズムであると思っているのです。
言い方を替え るなら、繊細なる心配りで相手を立てて、その結果自分が泣いてもそれをよしと潔く思う。というのが男がする「優しさ」の本質ではなかろうか、と思うので す。
僕が思う「男の優しさ」とは、常にその裏側には「強さ」がないといけないと思うのです。
妻が出産の時、その夫も出産休暇をとるというのが最近では通常らしいですね。大企業なども、それを当たり前として認めています。出産の苦しみの時、夫はその妻のそばに居てあげるのが、優しさだというらしい。
僕の極論から言わせれば、これも「男の優しさ」とは言わないのです。
妻が出産し、二人の大事な子どもが出来るなら、やはり男は外に猟に出てそれまで以上の食料となる獲物を捕まえてくることにあるのではないかと思います。
やさしさという感じは「優」という漢字をあてます。「優」とは「劣」の逆です。つまり、優っている状態が「優しさ」なのであります。優っている状態というのは、言い換えれば強いのです。
だから、本当の優しさの前提には「力」が必要なのです。
力があるからこそ、弱い者も庇うことが出来て、自分が正しく思うことでもあえて自分の言葉を呑み、相手に謝ったり、相手を立ててあげることが出来るのではないでしょうか?
だから妻が陣痛の時、そばでオロオロしているのは男としての本当の優しさではないと思うのです。
本当の優しさとは、「安心して子どもは産め。後は俺に任せろ」と力強く言ってあげれることではないでしょうか?
しかし、こう書くと女性の人たちからは「出産期間くらい休んでもいいように、日頃から稼いでいれば何も問題はないのよ」と言われることも百も承知の上なのです。
事実は貴女達の言う通りなのですが、それはあくまでも一つの例えのニュアンスということで汲んでください。
それでもなおご立腹されます女性の方たちには、謹んでお詫び申し上げます。
(という判っていながらにして頭を下げる、というのが男の本当の優しさだと僕は思うのであります。。。)