タイトルは昔、学校で習って記憶のどこかにある人もいると思う。
ない人もいるだろうけど。
習ってもその本当の意味を感じ取っている人は我々凡人ではあまりいないと思う。
『平家物語』は、有名な「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」という言葉で始まる。
祇園精舎とは、インドの熱心な在家信者アナータピンディカ長者がお釈迦様に布施した場所のこと。
ここでは、人が死ぬと鐘が鳴ったという。
その鐘の音は、諸行無常――「すべてのものは常に変化する」という絶対の真理――を告げている。
わたしたちは何となく、今の状況がずっと続くのではないだろうか、と思い込みがちである。
ところが、よくよく思いを巡らせてみると、この世界にある一切のものが多かれ少なかれ必ず変化するものであることに気付く。
物事の本で読んだり、こう書かれてみればみんな頭では分かる。
しかし、頭で理解したということと血肉となり肌で知るということには雲泥の差がある。
「諸行無常」という本当の意味を知れば、恋や恋愛で相手の気持ちが変ったとかで騒ぐこともない。
人間の気持ちなど、一番変化しやすい部類に入るのだから。
「人の気持ちは日々変化するもの」と、最初から腹をくくればもう少し生きやすくなることであろう。
これをベースに考えれば、恋愛の「浮気」という定義も当たり前の人の心境となり、そう不思議なことではない。
言っておくが何も詭弁を使って「浮気」を正当化しようという企みではないよ。
その辺りを間違えずにね。
諸行無常の恋愛感を持てば、今相手から想われている幸せ、今自分が相手を好きな気持ちというのがより大切に出来るということが言いたいのだ。
そして諸行無常の恋愛感からは今相手から想われていても、この先はどうなるかわからないともなる。
永久に自分を愛してくれる保証はなにもないのだ、実は。
保証が無さ過ぎるので、結婚という儀式で大勢の前で仰々しく誓う。
それも神様まで引き合いに出して。
きっと神様も辟易していると思うよ。
「浮気」や「離婚」をされたと言って、さも悲劇の人よろしく騒いでいる人もいるが、される側にも半分の責任はある。
そういう不安定な要素の多い諸行無常の恋愛感だからこそ、我慢することなく長年連れ添うことが出来る伴侶と巡り会えたら最大の幸せなのだ。
恋愛・結婚というのは両方の気持ちが向かい合っている時にはじめて成立するものである。
どちらか一方でもその気持ちが無くなれば、そこで終わり。
ジ・エンドとなるものだ。
自分の気持ちが残っていても、相手に気持ちが無くなるを見て取れば、腹を掻っ捌くつもりで区切りをつけないと絶対いけない。
気持ちを引きずって、幸せを手に入れた人をいまだ僕は見たこと無い。
そりゃ愛している人から離れるのは辛かろう。
ここでも諸行無常の恋愛感を受け入れるのだ。
二人でいるのが当たり前と思うではなく、今日も自分は相手のことが好きだった。
そして彼女も自分のことを愛してくれた、でも明日はどうなるかわからない。
そう毎日思えばいい。
そうすれば自分が愛していることも、愛されることにももっと感謝出来るはずだ。
感謝出来るということは、それをより大切に出来るということなのだ。
「諸行無常」という古臭い言葉を今回は例に出したので、全体的に説法臭い内容になってしまったが、たまにはこういうのも良いだろう。