SNSの発明と同時に人は何を失ったか?

今やfacebook、Twitter、instagram、YouTubeなどのSNSのアカウントはもう誰もが複数を持つ時代になった。
太古の昔から、人が相手に何かを伝える手段というものはその時代によって作られ、その手段は時代と共に進化していった。
進化するものというのは、人間が根源的に求めている必要なもの。
それは過去において常にそうだったし、今もそうだし、そしてこれから先未来においても人は常に外部の人に接触することを求め、その手段は常に進化することだろう。
facebookの利用者が停滞しているだの、facebookはもう終わっただのとネット上では議論されることもあるが、それらは僕から言わせれば全く無意味なものです。
終われば必ずfacebookを凌駕する素晴らしいシステムが生まれた時であるから、それに移行すればいいだけの話。
大切なのは、そういうツールを人がなぜ求め、なぜ進化していくのか、という本質を考え、それをビジネスや自分の人生に活用することが重要となるわけです。
どんなに遠方だろうとfacebookで繋がってさえいれば、相手の状況が瞬時にわかり、また連絡も即座に出来るこのツールの恩恵はもう語ることもないだろう。
日々実践している人なら、考えるまでもなくわかるでしょうね。
でも便利になった反面、必ずそれらから人間は大事なものを失っていることも忘れてはなりません。それも同時に認識し、理解しておくことが大事です。
進化の発展では、人間は必ず大事なものを失う。。。
それは太古の昔、人間が言葉を発明したことからはじまる。
意思疎通を図る「言葉」というものを人間は手に入れたと同時に、自分の身を守るための「嘘」というものも同時に手に入れることになる。
そしてその偽りは、いつしか自分自身を「言葉」で偽るようになり、自分の本質を見失うものともなりかねなかった。
ソーシャルネットワーク・サービスの発明と同時に、人は何を失ったか?
多くのソーシャルネットワーク・サービスにより身近な人の近況が瞬時にわかるようになった。
それも写真などビジュル的にお互いの様子が一目でわかる。
それこそ、どんなに離れていても通信はいつもで瞬時に行えるのだ。
でもこの「いつでも、どこからでも」というのが実は曲者だ。
昔、一家に1台の電話がなかった頃(年が分かるか)、相手への通信手段はそれこそ限定されていた。
手紙、固定電話くらいのものだった。
電話といっても今みたいに個人的なものではなかったので、パーソナルな通信手段とも言えないと思う。(その昔、電話は玄関かリビングにあった)
それゆえ、自分が思う人ともなかなか連絡が取れなかった。
連絡がとれない、ということはその間中はその人の事を考え「想う」という時間を費やすということになる。
「会えない時間が愛育てるのさぁ~♪」
というフレーズの歌もすでに時代的になってしまったかな。
とにかく相手の声を聞けない間は、人はあれこれと相手の事を思い巡らす。ああかな?こうかな?という具合に、色々な側面から考えることが出来たと思う。
しかし今は、相手に疑問があれば瞬時にメッセージやLINEで相手の思いを聞くことが出来る。そしてまた自分の思いも伝える。
でも、その便利さゆえ相手を「思いやる」「察する」ということが少なくなっているように僕は感じる。
facebookでの人の言動を見ていても、それは感じる。
特にこの「相手を察する」という、日本人特有の感覚は大事だと僕は思う。
察するからそ出来る、相手への気遣い。
察するからこそ出来る、心の準備。
察するからこそ出来る、配慮。
察するからこそ出来る、良き人間関係。
それが本来日本人が持ち合わせていた奥ゆかしい文化の根源だと思う。
世はインターネットでスピードの時代になっている。
だからこそ、この失われた良き感覚である「察する」という気持ちを、一旦ネットを閉じて思い巡らす時間を意図して作ってもいいのではないかな。
と、僕は思ったりしています(^^)