人はどうしようもない経験の数だけ強くなれる

映画や舞台が好きで一時脚本家という仕事をしていた頃がある。
ライターの習作時代、憧れていた作家は倉本聰、向田邦子、山田太一という御三家。
とくに倉本聰の描く世界が好きだった。
そして今でも好きで、時折代表作の「前略おふくろ様」「北の国から」などを見放題サービスで見ている。
倉本聰が描く世界の何が魅力的だろうと考えた時、氏の世界は常に「どうしようもない事」と向き合い、懸命にその「どうしようもない事」と戦っている人間がいるからだ。
どうしようもない事・・・
それは氏のドラマでは人間の老いであったり、死であったり、愛する人との別離であったり、時には大自然だったりする。
人間生きていれば「どうしようもない事」はいくつも経験する。
神戸に住む僕たちは1995年にそれこそ「どうする事も出来ない」大惨事に見舞われた。
なにせ壁際に置いているテレビが一撃で反対側の壁に叩きつけられ元の場所に跳ね返る、という繰り返しを数秒の間に目の当たりにした。
それなんかはまだいい方で、一撃のもとにマンションが崩壊した所もある。
その瞬間的な衝撃は、スマホの警報なんか響いてもそれこそ「どうしようもない」に尽きる。
僕の地域は下町でバラックと言われる木造の長屋が多かった為、一撃の揺れで家屋は広範囲に崩れ去った。
でもまだ生き埋めになった人がいて、無傷の人たちは素手で家屋を動かして助けようとした。
が、そんな家屋が人間だけの力で動くものではない。
そのうち火の手が廻ってきて、家屋に埋もれている人たちは生きたまま炎に包まれて死んでいった。
人間が生きたまま焼かれる最期の絶叫は凄まじい。
何年経ってもその声は耳に残っている。
それは自然が起こした最悪の「どうしようもない」惨事だった。
丸焦げになった長田の町を見て「もうどうしようもない」とそこに住む誰もが絶望的に思った。
でもその20年後の今、街は開発と共に生き返っている。
そういう時、人間ってスゲーなと思う。
人間誰しも生きていれば「どうしようもない事」は多かれ少なかれ経験する。
でも、それでも今生きているということはその「どうしようもない事」をどんな形にせよ乗り越えてきたということだ。
人はどうしようもない経験の数だけ強くなれる。
そしてその数だけ優しくもなると思う。